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なんちゃって宗教法人・味しみ大根教

実験施設。たまにエッセイ。※当方は実在する宗教法人ではありません。

2.信仰の意味付け

 前回の記事では、宗教にとって欠かせない神の設定について語った。

 

ajisimidaikon.hatenablog.com

 さて今回は何をしようという事だが、実はここから先、どの順番で作っていってもあまり変わりはない。教義を固めていくのがセオリーだが、今回は一呼吸おいて、

 

「そもそも宗教が必要なの?」

「今どき宗教とか頭おかしなるで」

「信仰が許されるのは小学生までだよねー!!」

 

といった、宗教を門前払いしてしまうタイプの人々に対してカウンターを浴びせ、興味を持ってもらう機会にしようと思う。

信仰 = 結論としての盲従

 先に、私の言う「信仰」というものが、どのようなものかについて定義をしておこう。

                       

                                                   信仰 =『結論としての盲従』

 

である。『盲従』とは信じて疑わない事である。ある概念に対する全面的かつ無批判的な肯定である。それに『結論としての』という条件が付いている。『結論としての』とは、盲従に至るまでに様々な思索、苦悩、思考錯誤があったことを意味している。つまり信仰するためには、それまでに信仰対象の概念について、少なくともその正誤・真偽を疑う時間がなければならないのだ。

 信仰という単語には、全面的な肯定を意味する『信じる』の”信”に*1、『仰ぐ』の”仰”という語が組み合わさっている。あくまで日本語圏における信仰の説明にしかならないが、仰ぐ、というのは主体が自覚する動作である。

 さて、そうなると話は簡単である。彼がAを信仰する、とする場合、彼はAに盲従しているという自覚がなければならない。彼がAを認識した始原からAに盲従しているという状態は、彼がそもそもAを客体として認識できていない状態なのである。その範囲において、信仰は『自覚のある盲従』と言い換えることができる。

 彼がAを客体として自覚した時、初めて彼は主体として客体Aに対峙する彼自身を自覚する。彼は客体Aについて思索し、Aについてどのような認識を示すかを決定する。一部は正しく一部は間違っているとする部分否定(肯定)もあるだろうし、全部おかしい、認めない、嫌いという全否定もあるだろう。

 彼が思索の末、Aの全てが正しい、という結論を導き出せた時、彼はAを全面的に肯定する。そしてその思索の全てが正しい、という結論を導き出せた時、晴れてAに対する半永久的盲従が完成する。これが信仰の論理である。

 ”半”を付けたのは、外部刺激によってAが変容したり、あるいはAを全面的に肯定する思索の正当性に疑問符が付いた場合、盲従がゆらぐからである。あくまでも外部刺激であることが重要である。主体の内側からの刺激によって信仰が揺らぐことは定義からありえない。

 

世界の全ての問題は、基本的に信仰の問題である。

 ここまでクソ長ったらしく私にとっての信仰の定義について書いてきたが、ここからが本題である。見出しだけ見ればある種の方々から植木鉢でも投げつけられそうであるが、まあ待っていただきたい。

 先程の定義した信仰という概念を用いれば、世界が基本的に信仰で廻っている事に気づくはずだ。

 まず一番大きいのは貨幣だ。現代においては、基本的にあらゆる貨幣は管理通貨制度によって運営されている。これは端的に言えば、貨幣の価値が、それを使用する人々の貨幣の価値への信仰によって保証される事を前提にした制度であり、このおかげで日本銀行FRBなどはただの紙切れを貨幣として原理的には無尽蔵に増減できるわけだ。金本位制では貨幣は信仰されていなかったのかというと、そうではない。金本位制は人々が価値の源泉として金を信仰していたという事を利用しているにすぎない。金と連動しているというシステムがあるがゆえに、人々はやすやすと金本位制時代の貨幣も同様に信仰できたのである。そもそも貨幣というシステム自体が、物々交換という非効率なシステムを、統一された価値基準を持つ触媒の交換をもってかえるという発想に基づいているため、ある貨幣がその流通圏内で機能するためには、その貨幣が当流通圏内の人々に信仰されていなければならない。 

 貨幣の価値なんか生まれた時から疑問をもったことはない、という方もいるかもしれないが、貴方が例えば日本円を使っている時、少なくとも貴方は日本円が貨幣として使えている事を認識しているし、基本的な日本円の流通システムに関しては義務教育でも習っているだろう。最近は、藤巻健史氏のように、日本円への信仰を試してくる人々もいる。

 

日銀失墜、円暴落の危機

日銀失墜、円暴落の危機

 

 

 貨幣のシステムについて興味がわいた方は是非金融の勉強をしてみてはいかがだろうか。ええ・・・金融とか銀行とか、興味無いし・・・とか言わずにやりだすと意外とおもしろい。

基礎コース 金融論 (基礎コース「経済学」)

基礎コース 金融論 (基礎コース「経済学」)

 

 マルクスなんかは、『資本論』でさらに明確に踏み込んで、本来人間が生み出し、支配していたはずの物、たとえば貨幣が、まるで意志をもっているかのように見え始めることを物神崇拝になぞらえたりしている。

 他にも信仰が隠れているところはある。今日かなり多くの人が大した研究意欲も無いのに大学に進学するのは、「大卒の方が高卒・中卒よりも将来が安定する」という信仰に基づいているし、シャープや東芝があんなことになっちゃっても大企業病といわれるものが未だ言われているのは、「大企業の方が中小企業よりも将来が安定する」という信仰に基づいている。老い先短いのにお金をため込むタイプの老人は、「将来が不安だがしばらく自分が死ぬはずはないだろう」という信仰に基づいているという事はありうる。syamu_gameさんの「処女は100点、非処女は80点」という発言は、言うまでもなく処女信仰の典型的類型である。

 

 このように、人々は宗教の信仰の有無に関係なく、あらゆるところで、あらゆるものを信仰しているのである。

 長くなってしまった。次はもう少し寄り道を続け、「なぜ人は神を信じられるのか」を考えてみよう。 

*1:必ずしも”無批判的”ではない。貴方の信頼する友人を想像して欲しい。彼がもしあなたにとって受け入れがたい言動を行った時、貴方はそれを改めるよう彼に言うだろう。しかし彼との絶交が決定的になるまでは、やはり貴方は彼を”信じている”、正確には、”彼が正しい方向へ向かうと信じている”。それは、単に友人を信頼するに際しては、無批判性が要求されておらず、彼の全面的総体として、その行為は彼にとってのエラーであり彼ではないものとして処理することで、依然彼を全面的に肯定しうるからである。彼が貴方の”信仰する”正しい方向へ戻らなければ、彼のエラーは再び彼の一部として回収され、貴方は彼を全面的総体として肯定できなくなる。かくして貴方は彼への信頼を失うのだ。なお、貴方がもしかの友人に”盲従”しているのであれば、彼の全行為はもはやあなたにとって受け入れられるものしかない。