休憩室

人間を休んでいる

「異形の”不”正解」が持つ力

 (無言で右手に握りしめたハツカネズミの生首を差し出す)(無言で右手に握りしめたハツカネズミの生首を差し出す行為を挨拶とする部族の出身なので)(嘘です)

 

 遅まきながら映画『セッション』を観ました

 世間は『シェイプ・オブ・ウォーター』のアカデミー賞4冠で騒がしいというのに、2015年アカデミー賞3冠作品をのうのうと観ていました。寺山修司言う所の(だったっけ?)最初にやる天才にも、最後までやらない豪傑にもなれない、ただのバカなので

 

 

  

 それで、「一番怖いのはフィッチャー先生ではなく監督」という感想になったのですが、何でかってというと、この映画全体が、役者が言っている事とやっている事、起きている事が不整合だからなんですよね。例えば、

 

 ・「チャーリー・パーカーが”バード”になれたのは、シンバルを投げられたから」と言うエピソード→シンバルを投げた因縁のジョージョーンズとの再会の演奏の際、「あそこでは”バード”は生まれなかった」とするエピソードを語り、スパルタ教育を否定するような物言いをしつつ教育現場では生徒にシンバルを投げ続け、「ジャズは終わっていく」と言いながら自身は「スターバックスで流れてるような」終わった演奏をするフィッチャー先生

 

・「バディ・リッチを目指す」というこの上なく明快なジャズ志向でありながら、ジャズのスタンダード・ナンバーを一向にメモリーする気が無く、テンポがまともにキープできないということをトラウマレベルで指導されているにもかかわらず、最後まで一切メトロノームを使わず、ただただ叩けるテンポを上げることだけに執念を燃やすアンドリュー君

 

 などがあります。

 

 菊地成孔氏が執拗にやった『セッション』と『ラ・ラ・ランド』批判で、監督・ディミアン・チャゼル氏の変質者じみたジャズへのストーカーっぷりは十分あぶり出されていると思うので、これ以上その方向に付け加えることはしませんが、個人的にはあの2作でもってディミアン・チャゼル氏は自ら、己に「ジャズ・ドラマーとして大成出来なかった自分」という呪いをかけてしまった様に思います。『セッション』でジャズへの恨みを全部晴らせればよかったのにね。『ラ・ラ・ランド』でもずるずるやっちゃったからもう延々と引き摺るしかないでしょう。これを断ち切るには『セッション』なんて吹き飛ぶレベルの浄化をやる必要があります。

 

話は変わりますが

 最近クラファン画家なるものが炎上しているのを観測しました。火が怖いので本人のツイートを貼ったりはしません。われわれは宇宙的観点からは未だそして永遠に野生動物である

 

kyoumoe.hatenablog.com

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 火事の遠景です。

 

 全然絵を練習する気のない(ように見える)元ラッパーの(そして飽き性に見える)人が、ホームレスでやったり、クラウドファンディングでやったりしておこられているようです。詳細は各自お願いします。火が怖いので。

 

 それで、なぜ『セッション』の話から突然クラファン炎上にいったのかというと、ここには、人間に「これはおかしいだろう!」と無理にでも言わせる力が共通してあるんですよ。

 

 文脈から外れた存在、"不"正解に、大勢の人々が気づくことは基本的にありません。人間誰しも帰属する社会は、その社会自身の持つ文脈にあった正解(ダブルミーニング)を基本的に提示するものです。”不”正解を排除するのが公教育(特に国語)と認知療法であり、不正解を排除するのが法と社会慣習、あと獄です。

 

 不正解を見つける能力の高い人がいます。彼らは社会に現われる様々な現象から不正解を抽出できますが、多くの社会問題は、そういった現象を見つける能力の高い人々、例えばジャーナリズムや官僚、悪いオタクなどによって「問題」として加工され、解決すべき問題として提出されます。これが「不正解」を咎めるものとして認知される時、形式は正解です。この作業の結果、彼らは不正解を見つける能力の高い人と見做されます。

 

 ツイッターでの炎上も、それに加担した人間全員が当該ツイートを参照して燃えるのではなく、目ざとい奴が悪意ある形の「問題」に加工して、解決という名の暴力的RTやリプをやっていくわけです。

 

 人間は不正解を見つけ、「解答」として殴りにかかるのが大好きですが、”不”正解を殴るのはあまり得意ではないようです。基本的に公教育のおかげで社会に”不”正解を出す要素が激減するというのがあります。見慣れてないと殴りにくいよな。例外的にこれが得意な人間が集まる界があり、一般に法曹界、学界などと呼ばれています。あと悪いオタクはこっちも大体得意。悪いオタクは本当に悪い。

 

 (正解と不正解の線引きをしている「不」についてですが、嵐の海に浮かぶ木みたいにガンガン動く模様です。”不”については、メタ視点です。)

 

 『セッション』、『クラファン画家』いずれも「問題以前」であり、かつ(方向は逆ですが)どちらも”不”正解として現れています。『セッション』は「問題」の提出に(おそらく意図的に)失敗するという形で。『クラファン画家』は、思想史・芸術史の文脈を理解しないまま無教養主義を体現した、意図せざるポストモダン・アート的人間になりうるという形で。

 

 だから『セッション』は内容より監督のディミアン・チャゼルが面白いのであり、『クラファン画家』は絵より本人が芸術的に面白いのです。

 

 ついでに言うと、『クラファン画家』の炎上は、他のツイッタラーの炎上とは一線を画すことが(かなり強引に)できます。彼は自ら「画家」という芸術家の一形態を名乗っている事で、自分の行為をコンセプチュアル・アートとして解釈される権利を(好意的に見れば)得ているからです。「画家としてあるとはどういうことか?どこからが画家なのか?」という問いを体現している、「今まさに生きられている芸術」ともいえます。

 

現代のアートは自らに向けられた偶像破壊的な身振りを流用し、そうした身振りを芸術制作の新たな様式とすることで何度も力を示してきたのである。現代の芸術作品は、より深い意味においても自らをパラドクス・オブジェクトと位置づけた──イメージであると同時にイメージの批評でもあるものとして。*1

 

 画家のイメージであると同時に画家という制度そのものへの批評でもあるものとして生きる芸術家のイメージ『クラファン画家』。絵を売らずに本人を売るクラウドファンディングで、なまじ50万円集めてるのでさらに説得力が上がる。燃えてから芸術家を名乗るヤツはフェイク

 

 ……分かりますか?これが「問題」への加工です。こういう引用をつけるとさらにそれっぽくなるな。何人かは騙せそう。

 

 本来あからさまに提示されている『問題』が構造的に自滅している、問題提起としての”不”正解『セッション』。

    本来ただの一炎上にすぎなかったものが、アーティストを名乗りクラウドファンディングで金を集めた結果、彼そのものをアートとして擁護しうる可能性を残した、不正解としての”不”正解『クラファン画家』。

   

    これらは観た人間に殴りたいと思わせずにはいられない魅力を放つ「異形の”不”正解」なのです。

 

 ……ここまで書いといてあれですが、オレは『セッション』、『クラファン画家』、どっちともダメです。『クラファン画家』に関しては、オレが知らないだけでアウトサイダー・アートの歴史の中に先駆者がとっくの昔にいそう。擁護は難しい技術。

 

さいごに

 

 ……しっかし、オレも金欲しーなー。黒塗りしてピアノ弾いたり、精液で小説書いたりすればいいのかな。

 

 では。

 

 

アート・パワー Art Power Boris Groys

アート・パワー Art Power Boris Groys

 

  アート・パワーは良いぞ

*1:ボリス・グロイス『アート・パワー』現代企画室、p21-22